2014年10月6日月曜日

横山恵久子さん講演会 無事終了いたしました。

10月4日㈯に、AARJapan難民を助ける会相馬事務所より横山恵久子さんにお越しいただき、「東日本大震災 あの日の救助 そして 今」というテーマでお話していただきました。

残念ながら、180名定員のコミュニティセンターホールが満席になることはありませんでしたが、80名以上の方にご参加いただきました。





横山恵久子さん プロフィール
昭和50年相馬市生まれ。学校卒業後、4年間航空自衛隊救難団に所属。引退後、カンボジアやベトナムで地雷撤去運動、枯葉剤被害支援団体の活動に関わる。2011年2月カンボジアから帰国、3月11日相馬市内で被災。その後、相馬市長の依頼で孤児のためのNPO法人の立ち上げに参加。NPO「相馬フォロワーチーム」事務局を経て、AAR「難民を助ける会」相馬事務所職員として、仮設住宅への支援を行い現在に至る。震災時はヘリコプターから身を挺して救難活動に当たった。


AAR難民を助ける会相馬事務所スタッフとして、佐々木さん、下浦さんにもお越しいただきました。



横山さんに実際にお会いしてみたら、その経歴のたくましさからは想像できない、温和で物腰の柔らかい女性でした。

しかし、その口から語られた壮絶なお話や、厳しい現実を涙をこらえてお話しされる姿から、横山さんの中にある、とても強く芯のある心が感じられました。

講演会は、相馬市沿岸部の津波の映像から始まりました。
さざなみのような第一波から、見る見るうちに海が盛り上がっていく様子。
会場からは、悲鳴のような溜息のような何とも言えない声があちらこちらから聞こえてきました。



被災後の街の写真の数々と、遺族の了解を得たご遺体の写真を数枚。

一つ一つの写真に対する、横山さんの丁寧な説明から、
現地で一人一人に寄り添った支援活動をされているという横山さんの姿を想像することができます。

仮設の方々が手作りしている手芸品を披露していただきました。




 
 
救助活動で、津波がきている時には、自分より大きな男性など多くの人を引き上げることができたのに、引き潮の時に小さな子供を引き上げることができなかったことは一生悔やまれる、という話。
 
真っ暗になった海岸沿いから「助けてくれ」という声が聞こえながらも、二次被害を防ぐため、夜明けまで出動できなかった話。
 
母親を亡くし緘黙(言葉が話せない)になってしまった男の子の話。
 
仮設内で、自殺が増えており、朝方と夕方以降のパトロールを欠かせないという話。
 
会場内ではすすり泣く声もありました。

 
津波被害だけではなく、放射能という問題も抱え、複雑な福島の現状。

救援物資がまったく届かず、手の中に転がるほどのおにぎり一個でしのぐ日々が何日も続いたこと。

やっと送られてきた救援物資を、手渡しで渡してもらえなかったこと。

県外に一時避難をしていた方々が、実際に受けた差別発言、差別行為の話。



本当に、たくさんの問題を、とても狭い範囲で抱えているという事がわかりました。

 

 
 質疑応答で、一人一人の質問に丁寧に答える横山さん。

 
「まだまだ話したい事、伝えたいことが、たくさんありすぎます」


「復興復興と言われているけど、福島はまだまだなんだということをご理解いただけたら」


と最後におっしゃっていました。

また、横山さんにお越しいただく機会を作りたいと思いますし、

まだまだ復興の進まない地域に想いを寄せる人がもっともっと増えてほしいと願います。

「何か贈ってくださる際には、ぜひ住所とお名前をお書きください。
相馬の人たちは、みな、「ありがとう」を言いたいと思っています。」とおっしゃっていました。

一方的ではなく、少なくても小さくても交流することを目指すはむら復興サポートの活動ですが、横山さんの言葉で今後も継続していこうと強く思いました。


そのために、はむら復興サポート、できることを模索しながらこれからも活動してまいります。

少しでも関わりたいという方ももちろん、ただ現地を知りたいというだけでも結構です。
共に明日を作る仲間を随時募集しています!

かわら版 第6号

こんにちは!
はむら復興サポート かわら版第6号です。
 
横山さん講演会、無事終了いたしました。
また後程、詳細をアップいたします。